日本看護倫理学会第12回年次大会 初日が終了しました。
ぎりぎりまで内容を考えた大会長講演。
多くの人に「よかった」「感動した」と声をかけてもらって、ほっとしました。
盛りだくさんのプログラム。1200人以上の方に来ていただいています。
明日も、参加者の学びが深まる一日になるよう、運営、頑張ります。
支えてくれている企画委員、実行委員、ボランティの皆さん、ありがとうございます。
会長講演の要旨は以下のとおりです。
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会長講演 「格差社会の中で看護倫理を考える」
大会長 勝原裕美子(オフィスKATSUHARA代表)
もともと、私たちは一つでした。
意識だけがそこにあり、そのうち物質が生まれた・・・・。
やがて、あるものに名前がつき、それは別のものと区別されるようになりました。
それでも、私たちは地球上のあらゆるものと共存していました。
たまたま私たちは人間であり、たまたまそれは牛であり、あれは鳥であるだけのことなのだと・・・。
しかし、そのうち、あるものと別のものの間には優劣が生じます。
それが人間同士の間にも起きるようになりました。
そして、そこにさまざまな感情も付随するようになりました。
私は倫理学者でも哲学者でもありません。これまでの自身の歩みから考えると、なぜ今回のテーマ「格差社会の中で看護倫理を考える」にこだわったのか、最初は自分でも言語化できませんでした。ただ、気になる・・・そういう感じでした。
でも、今は明確になってきています。
それは、やっぱり看護そのものの性質にこだわっているからなのです。あるがままの目
の前の人を受けいれるという尊い性質です。看護は、性別、年齢、職業などの属性は聴取します。しかしそれは、その属性に応じたケアをするためであり、それらの属性における優位性に囚われることなく、回復する力、病と共に生きる力、そして生を全うする力を信じ、それを支えます。
その過程において、どうしてその人がその状態に在るのかを知り得ることになります。そして、なぜこの人はこういう経過をたどってしまったのか、他に選択肢がなかったのだろうか、助けてくれる人は周りにいなかったのだろうかといった違和感を覚えることがあります。共存という社会が成り立ち、当たり前に人が人に関心を持ち、相互に補完し合えるならば、目の前の人はこうはならなかったかもしれない。そういう違和感です。
実は、その違和感は、”格の差”に気づいてしまった感覚とも呼べます。地域格差、情報格差、教育格差、世代格差・・・。さらに言えば、病院格差や看護格差もあります。
どうして生活歴が異なれば助かる人と助からない人ができるのか。どうして以前の病院では適切な治療を受けられなかったのだろうか。格差によって、人の命のありようや暮らしが異なることを、私たちは知っています。それでも、敢えてそこには踏み込まず、ひたすら精一杯その人に向き合い、手を当てます。それが、私たち看護師にとって大事な倫理観を育んでいます。
しかし、格差が生み出した人びとの心身や生活が、繰り返し目の前に現れるとき、看護師としても人としても、やるせなさや空しさを覚えることはないでしょうか。実は、社会や仕組みが生み出しているだろう不条理や理不尽さに、私たちはどのくらい向き合ってきたでしょうか。
たとえば地域包括システム。少子高齢化社会を支えるためには必須ですが、システムに格差が内包されていないでしょうか。条例や諸規則にも格差が生じているでしょう。そういうシステムやルールを作るのも人間です。そこで暮らすのも人間です。看護師だからこそ気付く格差に、私たちはどう向き合っているのでしょうか。
看護師は、“同僚性”“集合性”という専門職として大事にしている精神性を持ち合わせています。一人では微力でも、同じように感じている仲間がいるからより良いと信じる行動がとれる。一人では微力でも、みんながいれば大きなことができる。そんな精神性です。
もともと属性における優劣で人間をカテゴライズすることのない看護。そこに身をおく私たちだからこそ、格差があるという現実に目を向け、私たちのできる行動を考えていきたいと思うのです。
『格差が生み出した人びとの心身や生活が、繰り返し目の前に現れるとき、看護師としても人としても、やるせなさや空しさを覚えることはないでしょうか。実は、社会や仕組みが生み出しているだろう不条理や理不尽さ』格差のもっとも理不尽であることは、世代を超えてまるで遺伝子のように『受け継がれ、伝播』してゆくことです。人はまだまだ未完成なのか?、これが能力限界なのか?ただ、社会に格差がある事を自覚?できるのは、動物のなかでは人だけだと思います。(わずかな希望)