数日前、関西を中心に展開されている「退院調整ナースの会」の納涼会に参加させていただきました。
会場は、大阪の淀屋橋にある芝川ビル屋上。このビルは、昭和2年に竣工された国の登録有形文化財。ノスタルジックな雰囲気満載です。エレベーターなどないため、4階屋上までは階段を使います。
屋上に上がると、もやぁ~っとした湿気と暑さでやられちゃいそうになります。献立はベトナム料理でとても美味。まるでベトナムの暑さの中で食べているかのようでした(かつて、ベトナムで熱中症になったことがあります)。
話を戻して、退院調整のこと。
京都、大阪、兵庫あたりの病院で退院調整の任にあたる看護師たちの集いですから、
現場の話で盛り上がります。
・「いい(良い)」訪問看護師さんがついていたら、絶対におうちに帰せる。
・まず、筋力をつけてもらう。そうすれば、絶対、胃ろうにもチューブにも頼らに食べれるようになる
・「自然に死ぬ」ということが、どういうことかわからないケアマネさんは、すぐに入院させたいと言ってくる
・日曜は訪問に行かないという訪問看護事業所との交渉がたいへん
・○○市はすぐに動いてくれるけれど、△△市は全然動かない
・数日後にはおうちに帰るという人なのに、病棟では身体拘束することがある
・本人も周囲の人たちも、おうちに帰る方向で気持ちを合わせてきたのに、遠くに住む息子が出てきて、こんなんでうちに帰らせるのかと息巻いた。早くからの介入が無になる時がつらい。
メモをとったわけではなく(ビアガーデンでメモをとるのは、ほぼ不可能)、聞き覚えの箇条書きです。いい話もいっぱい聞いたのに、なぜか覚えているのはネガティブな話だなあ。メーリングリストに加えてもらったので、また定期の会にもお邪魔して、今度はその醍醐味をいっぱい聞きたい。
今やなくてはならない退院調整の仕事です。こうしたネットワークの中での、彼・彼女らのやる気・元気パワーの相互チャージを目の当たりにしました。その力が、それぞれの地域の人々の暮らしに生かされているのだなあと思うと、暑さも何のその!です。みんな、すごい!
良い退院調整ナースは、入院中から退院後の生活のイメージを描いているのですね。「退院調整」だけでは不十分な事がよく分かります。
ネガティブな情報が多いのは事実なのでしょうが、訪問看護の始まりの頃を思えば、随分遠くまで来たのだなぁとも思えます。
30年以上前になるでしょうか、聖隷浜松病院で退院した高齢者の様子を心配した夜勤明けの看護師が、自分の車で訪問していました。始めは黙認⇒病院車両で訪問⇒超勤対象にと変わって行きましたが、報酬も周囲の理解もない中で、まさに開拓精神で始まったのですよね。
ここまで到達した成果をしっかり踏まえ、その上で課題を整理することが重要だと、思いました。
私も、聖隷にいたときに、訪問看護の始まりの歴史をうかがったことがあります。みんな、入院中の患者さんのその後の生活に思いを馳せて、完治していなくても暮らしの中で暮らしていけるように地域の中で調整をしてきたと聞きます。その原型が、日本中に広がっていますね。
そうです。「夜勤明けで事故起こしたらどうするんだぁ!どうせ事故起こすなら病院車両で行けょ、その時には労災にするからさぁ」なんて、悪たれつきながら応援していましたよ。
何事も、その成功の陰には、表からは見えないところで支えて下さる方がいますよね。
土日出勤の訪問看護ステーション、神戸で発見しましたよ。昨日見学させていただいた「あさんて」です。土曜日は、毎週オープンで一人出勤体制。日曜日は、訪問が必要な方がいるときだけですが、訪問組んでいます。とても安心感がありますね!
退院支援の診療報酬などのもとになった研究班で、各地を見学学んでいたころ、聖隷浜松の病院と訪問看護ステーションを研究班でお訪ねしたのを、思い出しました。ほかの病院を一歩も2歩も先んじておられて、どうしてこんな実践ができるのか質問したら「だって患者さんが必要としていることを形にしてきただけ」と、素敵でした!その実践が、今の診療報酬や活動につながってますね。
まずやる、もう一回やる、その繰り返しですね。
いまないサービスをニーズを感じとり、情熱で動き、やがて、サービスに確立していく‼なんて訪問看護師らしい素敵なことでしょうか。アンテナたてて、地域のお役にたてるよう、日々の小さな実践頑張って、存在が維持できるよう頑張るぞ‼微力だけど。とおもいます。素敵なおはなしです。
素敵な話をいっぱい聞きたい、集めたい、多くの人に知ってもらいたいですね。